あーーーー疲れたーーーーー!!!怒涛の10日間だった!

 

9/12(木)

訪問診療の結果、麻薬を強めて貰う相談をするつもりが、麻薬を強めるどころか、腹水を抜き、診察結果で今日明日がヤマだと突然余命告げられて、俺と妹号泣。全ての予定をキャンセルして、交代制にて24時間体制で介護をすると決断する。また、同時に方々に訃報が近い連絡を入れる。麻酔が強くなってこれでやっと眠れるようになると嬉しそうで自分がもうすぐ死ぬだなんて知らない母に悲しみがこらえきれない。過呼吸になるほど号泣して悲しみに暮れる。日々母の貯めていてくれた口座が凍結される前に少しづつお金をおろし始め、こんなに貯めていてくれたことに感謝する。

 

9/13(金)

24時間体制交代の看護。糞妹を母のために合わせてあげるべく謎に罵詈雑言メールを食らいながらも心を仏にしてくるなら連れて行ってやるどうするんだ?と自分と母の大切な最期の2時間になるかもしれないのに、糞のために使ってあげることにした。

 

9/14(土)

山場と言われた2日間は超え、妹の旦那は3連休の箱根旅行をキャンセルして妹が看病できるように計らってくれたりしてくれた。披露しながらも衰弱していく母を看病と介護と愛を注ぎながら対応し続けて、メンタルと体力を削り続けながらも母の死の影におびえ続ける。

 

9/15(日)

引き続き24時間体制介護しつつ、お金をおろし、葬式の見積もりや段取りを平行して行い、糞妹からのメール攻撃に耐える。

 

9/16(月)

24時間体制看護。母の容体はだいぶ悪くなり、下の世話も必要となった。麻酔も自分で押せない、身体の態勢も変えられない、ただただ苦しいだけの母を見つめ続け、悲しみに暮れながらも、連休が終わり、今後どうしようかと悩む。これからが本当の終末看護だと覚悟完了し挑むと決める。

 

9/17(火)

覚悟を完了したくせに、結局連日の疲れで寝落ちしてしまい、母の最期を見守れずに息を引き取る。悲しみと後悔にまみれながら方々に連絡をし、早朝にも関わらず妹は一番にかけつけ俺に慰めの言葉をくれ、訪問看護の方に体を整えていただき、訪問医療の方に死亡認定書を書いていただく。そしてそのまま各所に電話、決めた葬儀会社に連絡し、その日の夜に通夜をやるとなる。分かってはいたことだが、あまりにも早い。明日には母は火葬されて灰になってしまうという現実が頭に入ってこない。それでも打ち合わせを済ませて、糞妹のためだけに通夜を行い、そして送り返しの最中にあまりにも疲れて冗談で、母より長生きしたんだからお前も親父ももう死んでも大丈夫だよという本音をこぼしてしまい、この発言を俺を正当に罵って良い権利と認識した糞妹は俺に母を思う私というポエムと俺や妹へのあまりにもひどい暴言を連投してくるようになる。そして通夜の会場で妹と一緒に母と過ごしその日を追える。

 

9/18(水)

葬式当日。一旦家に帰り、風呂に入り喪服に着替えて、母の棺桶に送る長文の手紙を書く。そして、諸々の準備を済ませて式場に入り、喪主をつとめ夕方葬儀が完了して解散。夜現実を受け止めきれず泣き崩れどうにも精神がおかしくなり、体中や頭を掻きむしりながら悶え苦しみ体は疲れているのにどうしても眠れず、家を片づけ始める。母を苦しめていた病気関連の思い出の品は全て袋につめ、点滴袋や遺品の整理などを朝の4時までやり、書類関連を整理しようやく体が疲れだしたので3時間寝る。

 

9/19(木)

引き続き悲しみと辛さで頭がおかしくなりそうなほど苦しみながら妹と2人で泣いたり母との思い出を思い出しながら遺品を整理したり、明日来る糞妹と親父のために物隠したり、遺品を選定したり、掃除したりを夕方まで繰り返し、妹が帰った後、やはり頭がおかしくなるほどの悲しみに襲われてどうにも精神が制御できなくなる自覚を感じ、とにかく心が痛くなりながら1日を追える。

 

9/20(金)

朝から名古屋に行き、お世話になった方々への返礼品を大量に購入しつつ、報われない立場の妹のために、3万円渡してデパ地下でなんでも好きなものを買いなさいと伝える自分は母の好物だったものを買い、めちゃくちゃ重い荷物を持って、昼過ぎに解散。名古屋から新幹線で家に戻る。そして引き続き母の遺品整理をしながら、親父に連絡して今日の21時になら時間作れると伝える。そして疲れで扁桃腺が腫れたので三村さんへ行き、夕方あまりにも疲れたので9時30まで仮眠。起きたらあまりにもあまりな妹の罵詈雑言を食らい、心の底からの怒りと悔しさと虚しさで涙を流し、それでも対応して遺品を渡すなどの対応をし、眠りについた。そして心の中で糞妹との縁を切る。

 

9/21(土)

仕事が来週から始まってしまうので書類絡みよりも優先すべきはお世話になった方へのお礼参りだという共通認識のもと、新幹線で豊橋まで行き、レンタカーで渥美まで。渥美の病院の先生にお礼の書面と先日買ったクッキーを渡し、母との思い出のある喫茶店で食事を済ませて、渥美の実家へ。恩義がありすぎるので、お酒が好きな家なので350mlのビール24本缶の箱を3セット買って、クッキーと一緒にお渡しする。家で歓待を受けてお菓子を貰い甥はいとこの娘に遊んでもらい、また美味しい渡りカニまで頂いてしまった。そして夜6時に豊橋駅まで戻り、新幹線で帰宅。頂いたカニを茹でて冷凍保存して本日は終了。

 

もうはっきり言って体力マイナス振りきってるほど疲れているしその間にもお客さんから電話が着たりするけど流石にマジで無理すぎて対応できんかった。

 

9/22日は車の点検が15時30分にあるだけなので、保険会社に死亡の電話と今後の書類関連の残りの下調べを行うぐらいかな。ようまだ動けてるなってぐらい疲れてる。ずっと立ち眩みみたいなのがあって体の限界をひしひしと感じる。

 

9/23日は妹が家に来るので遺品の最終チェックと引き上げを行う。そして、恐らくだけど、時間が合えば最大級に感謝をしている訪問看護の方へのお礼の手紙を書いて届けにいく日となりそうだ。あと、遺品で渡したために色々足りない食器類を買いそろえて、そろそろ枯れそうな供養花を買って入れ替えて、ゴミステーションに庭の枯れた花なんかを処分したりするって感じで終わるんだろうな。

 

以降は平日となるので妹に再び協力して貰いつつ、介護ベットや介護グッズなどの回収に立ち会ってもらったり、市役所等の書類を進めて、それら全てが済んだら、暮らしのマーケットに頼んで、母の使っていたベッドのマットレスや、棚や自転車等を処分して貰い、つつ市役所手続き関連を済ませ、49日法要で骨壺を渥美のお墓に入れて貰い、渥美の住職にお布施を渡し祈って貰ったら本当にひと段落。そして残った母の遺産+おそらく降りるであろう生命保険を整理して分割したら本当に終わり。それまでの間にも妹や親父からは不快な思いをさせられるだろうし、仕事も本格復帰になっていくのでタフな毎日が続きそうではある。そして49日が終わり次第、俺は新しい電話を契約し、やつらとの連絡専用機として部屋に充電もせず放置することとし、そして密かに家を引っ越し、住民票をきっちり移して彼らに知らせることなく生活を送ることとなる。それらが全部済むのは恐らく12月頃にはなると思うので、2025年からは新しい生活を送れると良いなぁと願っている。